(※注意・かなり電波を飛ばしてますのでご注意ください。)
また、この日がやって来たか・・・と思うと、悔しさと悲しさで締め付けられそうになります。
今日は昭一さんの三回忌、亡くなって2年になります。(2回忌とは言わないそうです)
もう2年です。心が引き裂かれる思いをして、必死に駆け巡っていた2年でした。
もう2年なのに、彼の名誉は全く回復されず、人々の記憶から忘れつつあります。
それは仕方ないのかもしれません、未だにテレビマスゴミが顕在だからです。昭一さんを貶め殺した犯罪者が彼を無視するのは当然のことでしょう。
必ず私利私欲におぼれるマスゴミを粉砕し、昭一さんの名誉を回復させる。そのために、これから私は生きていくつもりです。それだけの恩がありますから。
私にとっての昭一さんは、メキシコマンゴーの値段を100円も下げてくれて財布を守ってくれた(日本とメキシコのFTA協定により)ミクロなことから、日本を守るために必死に戦ってくれたマクロなこと、色気を撒き散らしてヒャッハーさせてくれたセクシーコマンド(何)な面まで、ありとあらゆる方面に関わる特別な人です。
馬鹿すぎてセクシーな面ばっかり強調してますが orz
そして、こんなに愛する人を殺されたことに対する怒りと悲しみは、2年経っても基本的には変わりません。なぜなら彼を貶め殺した犯罪者が、未だに野放しだからです。
キリスト教の神は「復讐は神の役目」と言うそうですが、恐らく因果応報のことだと思います。
しかし、一体いつになれば応報は訪れるのでしょうか。来年でしょうか、再来年でしょうか。
最近はこう思います、応報が下るまでに渦巻く憤りや遣る瀬無さすらも必要な経験なのではないかと。
憤りがあるから戦える。遣る瀬無い思いを二度としたくないから必死に学ぶ。
戦っても勉強しても、中川昭一は二度とあの姿では戻りません。ムネオがぶら下げる目先のエサに釣られた十勝の有権者が、取り返しのつかない過ちを犯したのですから。
彼を貶めた人々、彼を殺した犯罪者、彼を追い詰めた無知蒙昧さ。
これらに対する対価は、どれだけのものでしょうか。
今日は外では木枯らしのような風が吹き荒れています。昭一さんの葬儀のときは台風が来ました。去年の命日には私の祖母が倒れて覚えていませんが、あまり良い天候ではなかったように思います。
時代が時代なら菅原道真が雷神として祀られるように、彼も嵐神として祀られてしまったかもしれません。
彼は今でも必死に天国から支え、戦う人たちと共にいると感じています。
高貴な方が亡くなることを「お隠れになる」といいますが、昭一さんの死はまさに「隠れた」に近いように感じます。姿は見せないけど、力は発揮し影から人々に影響を与えるという意味で。
本当に彼の魂が天国から支援している云々ではなくて(たとえそうでも、確認のしようもない話ですからね。)彼の生き方戦い方が、後続の勇気を支えている、という意味です。この戦いは、本当に意味があると思います。
日本において、ついに国民レベルの改革が始動しているという意味で。
明治維新ですら戦ったのは武士たちで、一般人はノータッチでした。
それは施政者のレベルが高かったからもありますが、そのせいで国民が愚民化したのは致命的でした。
自らのレベルの高さゆえに我が身を滅ぼしてしまうなど、最悪以上の何者でもありません。
その最悪が、最悪な形で顕現したのが、中川昭一の死です。
彼の死から本当に、ありえないほど色々なことがありました。これからは、もっともっと混乱するでしょう。
しかし混乱と戦いの中でしか、人間は成長できないのかもしれません。
これから日本はますます混乱します。もちろん諸外国も。でも、戦い続ければ必ず新しい秩序が構築できるはずです。戦わずして生きることは、もう出来ないでしょう。
その戦いの希望として、これからもずっとずっと彼は語り継がれ、愛され続けるでしょう。妄信的に担ぎ上げるのではなくて、彼の戦い方を素で学ぶために。必ずそうなるように、自分ができることはすべてやります。
昭一さん、ありがとう。さよならなんて書きません。
あなたは今も隠れたまま、共にいるのですから。
世界は離れても、一緒に生きていきましょう。
拍手ありがとうございました!